2008年02月08日

《土の歌》

先日頂いたコメントの中の「合唱の伴奏」という文字を見ていたら、合唱曲「大地讃頌」のことを思い出した。
私が中学の頃、大変流行っていた作品の一つだった。
この曲は《混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」》の終曲。元は桶伴だが、桶パートをピアノに置き換えた編曲も良く出来ていたと思う。
ちなみに作曲者の佐藤眞は茨城県出身なんだと最近知って驚いたのだが、当時の先生方はご存知だっただろうか。

伴奏を弾こうかという話もあって練習したこともあった。が、結局その時は別の曲をやることになり、その別の曲は「伴奏やりたい」という同級生が別にいたので、その子にやってもらった。

「そういえば弾けるかなぁ?」と思ってやってみたら、冒頭の5小節前後は何とか覚えているらしかったが、その先が続かない。
尤も、楽譜を見ずにやっているので、思い出せないところはどうやっても弾けない。
弾けない。弾けない・・・

楽譜は割と簡単に手に入るし・・・別に本番で使う予定はないけど・・・買ってしまおうかしらん。

インタヴュー「佐藤 眞 歌い継がれる名曲「大地讃頌」の魅力に迫る!」
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2008年01月27日

フィビヒ(フィビフ)《交響曲第2番》Op.38

昨年末に川越の楽譜店へ海外発注で注文していた、フィビヒの交響曲第2番のスタディスコアを今日の午前中に受け取った。ほぼ1万円弱なので、スタディスコアとしてはかなり高額な部類だ。しかし刊行元がつけている値段が元々高いので仕方ない。高額なのは、長らく絶版だったりすることも理由としてあるのだろう。
届いたところで、《FIBIHOVA ČÍTANKA》(フィビヒ読本)という、1930年頃にチェコスロヴァキア(当時)で出版された書籍に、この曲の第2楽章がピアノ4手連弾版に編曲されて掲載されているのを思い出し、大雑把につき合わせてみた。
省略されている小節や表記がないか確認したかったのだが、フェルマータの欠落などが二三見受けられたものの、小節の省略はなかった。抜けているフェルマータなどを少し書き足せば、連弾のネタとしては使っても問題ないだろう。
或いは、全楽章をピアノ連弾に編曲してみるという手もあるが、ページ数が多いので、いざやるとなると結構なエネルギーが要りそうだ。

3,4年くらい前に、ホルストの《吹奏楽の為の組曲》第1組曲と第2組曲のスコアを入手して、やはりピアノ4手連弾に編曲しようとしたことがあったが、当時は本業が忙しかった(家に帰り着く前に日付けが変わるのが当たり前だった)こともあり、途中で放り出したままだ。
アレは一体何時完成するつもりなんだろう?>自分(ーー;
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2008年01月20日

時代の橋渡し役としてのシューマン・・・なのか?

R.シューマンの交響曲第3番《ライン》を聴いた話を、2008年01月06日にも書いた。このとき、ヴォジーシェクとフィビヒという、2人のチェコの作曲家の作風との関連性に就いてごく簡単に触れた。
終楽章をよくよく聴いてみると、もう一人名前を挙げるべき作曲家がいることに気付いた。グスタフ・マーラーである。
交響曲第1番だったか忘れてしまったが、シューマンの《ライン》の終楽章と非常に良く似たパッセージがある。
マーラーを殆ど聴かない私が気付くくらいだから、マーラーの作品を余程聴き込んでいる人が聴き比べたなら、若しかするともっと多くの関連性を見つけ出すことになるかも知れない。
マーラーは1860年生まれ。フィビヒより10歳下で、ユダヤ人だったが同じくボヘミア(要するに当時のオーストリア帝国領内)に生まれている。このような背景から、フィビヒと同じような影響をシューマンから受けたかも知れない。
ちなみにマーラーとフィビヒに関しては、知人の書いた演奏会の感想に、その興味深い共通点についての記述がある。

こういう観点で史料に当たってみると、案外面白い事実が出てくるかも知れないと思った。今日の記事は、殆ど実在する音楽作品の印象だけを根拠に、何の史料にも基づかずに書いているが、一つの可能性と感心の方向性ということで。
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2008年01月06日

R. シューマン 交響曲第3番変ホ長調Op.97《ライン》

D-Durを聴いていると、時々この曲が流れてくる。
日本でシューマンといえば、大体は義務教育の間に《ピアノ協奏曲イ短調》Op.54 を聴く機会があって、それでおしまい。せいぜい知っていても《子供の情景》Op.15の《トロイメライ(夢)》くらいか。
シューマン好きの間では、それに加えてホルンとピアノの為の《アダージョとアレグロ》Op.70、ピアノ独奏曲《交響練習曲》Op.13、《幻想曲 ハ短調》Op.17、《謝肉祭》op.9 等を知っていれば良い方ではないだろうか。

つまりは「有名な割にもかかわらず全貌が見えてくるほどには作品に触れる機会がない作曲家の一人」だと言いたい訳なのだが、この《ライン交響曲》を聴いてみると、その印象の力強さと明快さが《ピアノ協奏曲イ短調》のオーケストラパートのそれとは随分違っていることからも、その感を強くする。

かねてから、このシューマンの交響曲の作風に関連性が指摘されている作曲家として、2人のボヘミア出身の作曲家、ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク[Jan Václav (Hugo) Voříšek] と ズデニェク・フィビフ[Zdeněk Fibich] がいる。
ヴォジーシェクはベートーヴェンの後期に殆ど重なる約30年余りを生きた短命の作曲家で、ピアノ作品を聴くと「これでもか」と言うほどにベートーヴェンに作風が似ている。殆ど同じような年齢で、やはり同じようにベートーヴェンと交流のあったシューベルトと比べれば、ある意味「遅れた作風」と言えなくもないが、これが管弦楽作品(例えば《交響曲ニ短調》)になると、途端にベートーヴェンとは似ても似つかない作風を示す。ベートーヴェンよりも寧ろシューマンの方が近い作風だという指摘があるのだが、シューマンの《ライン交響曲》を聴いてみるとまさにその通りだと思う。
勿論、ヴォジーシェクの方がシューマンよりも旧い時代を生きた作曲家なので、シューマンがヴォジーシェクの影響を何らかの形で受けた可能性はないとは言えない。
フィビフは、若し関連性があるとすれば、逆に「影響を受けた」方ということになる。彼はプラハだけでなく、ウィーン、マンハイム、ライプツィヒ等で音楽修行をしているから、そのどこかでシューマンの交響曲に影響を受けていたとしてもおかしくはない。
但し、彼の敬愛したスメタナがそうであったように、彼もまたヴァグネリアンであった。そのフィビフが、リスト=ヴァーグナー派と対立していたシューマン=ブラームス派に傾倒したとは少々考え難い部分もある。
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2007年12月03日

音楽著作権について

http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho287.htm

後で色々書くつもりだが、取り敢えずURIをメモっておくという意味で、ここに記しておく。
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2007年11月11日

IMSLP閉鎖

気がついたら、IMSLP [International Music Score Library Project] が閉鎖になっていた。
詳細記事:IMSLPの閉鎖に就いての公開書簡

Public Domain な楽譜を、誰でも自由に閲覧・利用できるようにしようという取り組みであったが、Universal Editionから複数回にわたるクレームがついたことが閉鎖のきっかけとなったようだ。

個人的にはこのプロジェクトに対しては、意義を認める部分もあるが、諸手を挙げて賛成ではない。
今、世の中には、絶版になって何十年も経ち、うっかりすると嘗ての出版元が会社まで無くなっているという楽譜も多々ある。
そういう淘汰されかけている(この時点で既に手遅れ?)作品の全てが下らないと決まっているわけではない。メンデルスゾーンが復活させるまでの J. S. Bach が、その良い例の一つだ。
このような、出版社が絶版にしたままにしてしまう作品や、そもそも最初から出版もされなかった作品等を消滅の憂き目から守るためには、このような取り組みは寧ろ有効であるかも知れない(各種著作権の切れるまでという壁が、あるにはあるが)。
一方、「ある楽譜がPublic Domain である」ということは、「その楽譜に就いての作曲者の著作権は勿論、校訂者の著作権、清書した(人若しくは出版社)の版面権、版権(=出版権?)など、兎に角全ての著作権法上の権利が時効になって消滅している」ということになる。
であれば、確かに、コピーを自由にとっても問題なさそうだ。
しかし、そういった楽譜でも「今現役で出版されているもの」の場合、どうだろう。
そのような楽譜の出版が商売にならないとなれば、クラシック音楽のような狭い市場(なんじゃないかな?)では、出版社も収益体質を変えざるを得なくなってくるのではないか。そのとき、結局楽譜の単価が高くなったり、版権の切れた楽譜はどこも出版しなくなってしまったりしないだろうか。それでも遣り繰りがつかなくなったら、その出版社は身売りするか商売を畳む破目になったりしないだろうか。
その結果、消費者が良い思いをしないような気がする。
いずれも「世の中そんなに甘くないのだよ」と言ってしまえばそれまでだが、それがより良い姿だとは私には思えない。

・・・とまぁ、出版社擁護ともいえる調子で書いたが、その背景には「その代わり、音楽作品をきちんと後世に伝える役割を果たして欲しい」という出版社への思いもある。
何故ならここ2,3年の間、私は半ば苦々しい思いで、絶版楽譜を古書で何冊も購入しているからだ。
posted by D(各務) at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2007年10月29日

アフリカ音楽かと思ったら、ストラヴィンスキー

D-Durにて。
如何にもアフリカっぽい音楽だと思った。
木管楽器とパーカッションの醸し出す、コミカルで軽妙なメロディーとリズムはどう考えてもクラシックのそれではない。
NHKやTBSの番組で、アフリカの乾燥した灼熱の平原で、陽炎の向こうに痩せ細った家畜をトボトボと追い歩く現地民の姿を映し出しているような、そんな光景がありありと目に浮かびそうな音楽だ。

そんなものを書いたのが、よりによってストラヴィンスキーだというから驚く。
「春の祭典」のような前衛的なバレエ音楽を書くと思えば、18世紀イタリアの作曲家・ペルゴレージの作品を下敷きにした、ヴァイオリンとピアノの為の「プルチネッラ(イタリア組曲)」のようなものもあり、ある意味掴み所が無いと前から思っていたが、こんなものまで書いていたとは・・・(笑)。
タイトルからも、アフリカの音楽を描写しようとした音楽であることは間違いないと思うが、それにしてもストラヴィンスキーは一体、どこでこのような民族音楽に接したのだろうか。

ところで、こんな曲名・・・良いのか?


15:10 - Igor Stravinskij: Ebony Concerto
Allegro moderato - Andante - Moderato. Vivo ; Hrají Jiří Hlaváč (klarinet) a Soloist's Band, řídí Stanislav Bogunia.(11 min)

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2007年10月27日

Musica Bohemica

毎年この時期に開かれる、ムジカ・ボヘミカのイベント。
行ったことはないが興味のある分野なので書き留めておく。
行ってみたいが平日なので今年は個人的にはちょっと厳しい。。。



オープンレクチャーシリーズ
「スメタナピアノ作品集 第2集」楽譜出版記念
チェコピアノ音楽へのいざない 第8回 「スメタナ」


お話 ヤン・ホラーク
通訳 井上 道子  

2007年12月12日(水)6:30 PM〜
スタジオ・ヴィルトゥオージ
全自由席 1000円


《演奏会》
2007年11月27日(火)7:00 PM〜
津田ホール
全自由席 3500円

問い合わせ:ムジカ・ボヘミカ
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2007年08月12日

wikipediaのFibichの記事

何を隠そう、私が書き起こした記事だが、有り難いことにその後色んな方に関心を持って頂き、加筆を頂いている。しかし、その中でただ1点気に入らないことがあって、それは "Fibich" の一般的な日本語表記として「フィービヒ」を追加されたことだった(が、実際にそういう表記は目にすることがあるので、追加されたこと自体は止むを得ない)。
チェコ語を多少知っている人なら、「フィービヒ」と長音を入れた表記にするためには、"Fibich" ではなく "Fíbich"(2文字目の"i" が普通の"i"ではなく、"i"のチャールカ) としなければならないことは直ぐ分かることだ。しかし、残念なことだが、このような表記は時々見掛ける(他に、「フィービッヒ」など)。
ちなみに、「フィービッヒ」と書くと、現在国立音大で教鞭を執りつつ、オルガニストとして活躍しておられるドイツ人(トーマス・マイヤー=フィービッヒ氏のこと)と紛らわしい。

・・・まぁ何れにせよ、長音入りの表記は誤りであることに変わりはないので、いつか何とかしなければと考えていた。そういう訳で今回、久々に当該記事に手を入れ、「・・・長音を加えた表記は誤りである」と、バッサリやった。「こんな表記は認め難い」として消してしまうより、そういう表記を残した上で、それが誤りであることを指摘しておいた方が効果があるであろうという考えから、今回はそのようにした。
書籍等でもこのような「長音入り」表記が横行しているようだが、今回の措置が効いて、近く一掃されることを期待したい。
posted by D(各務) at 02:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2007年08月01日

有意義な記事とは?

Ken がたがたへりくつクラシック というblogがある。
都内の桶指揮をしておられる方のようで、桶の話も出てくるが、音楽関係の濃い内容の話題を書かれることが多い。
いつもはFirefox(...という、webブラウザだ(笑))のRSSフィードリーダで概要をチェックしているだけなのだが、その最新記事のタイトル(ちょっと酷評:「指揮者列伝」ふくろうの本)がちょっと気になったので、全文を読んでみた。
この中でKenさんという方は、たまたま手にとった本の無内容振りにガッカリしていた。仰りたいことは、

(引用:ここから)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
たとえ娯楽のためでも、読者が本を手に取るのは「情報がほしい」からです。それも、筆者本人が文章の対象ではない以上、欲しい情報は「筆者個人の楽しみ」ではなく、読者としての「私」にとって新知見を得られる類のものです。
(引用:ここまで)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

という一節に尽きるのだろうと思う。
そこまで思ったところで、私は「我が身はどうだろうか?」と思った。
尤も、私の場合は本のことではなくウェブサイトのことでしかないが。

このblog "Klaviermusik"などはその点「比較的どうでも良い」というのが元からのスタンスなので、気にしてもしょうがない。しかし、"気分・印象、そして追憶 〜 Zdeněk FIBICH"の方は、そういう訳には行かない。何故ならこのサイトを通じて、「(対象となる読者数は極端に少ないかも知れないにせよ)有用な情報を提供したい」からである。
例えば楽譜なら、出版社や編成(管弦楽の場合は詳細まで書かないが)等の他、「絶版か否か」くらいは書くようにしている。
CDの方は、基本的に収録曲がどんな曲か聴いたことがない人も対象にしているので、演奏評なのか曲そのものの評なのかハッキリさせていないものも多い。
・・・そういうものが果たして、読む人の目に本当に役に立つ情報として映っているかどうか、思えば心もとない。
そんなわけで、「全面的に、内容を見直してみようか」という気になった。
posted by D(各務) at 23:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽

2007年07月31日

ベートーヴェン《合唱幻想曲》Op.80

D-Durにて、更に聴いていると、題記の曲を放送していた。

この曲、「ピアノ+管弦楽+独唱6+四部合唱」というとんでもなく大きな編成。これに近い編成の作品といえば、私はフェルッチョ・ブゾーニの《ピアノ協奏曲》くらいしか知らない(他に何かあるだろうか?)。
しかし、冒頭は長々とピアノ独奏が続き、その後管弦楽が入り、終わりの方になって漸く(?)独唱+合唱が入り、盛り上がったところで盛大なカデンツをもって終わるという、極めてエキセントリックな楽曲構成になっている。
こういう楽曲構成と、更に同じ作曲家が晩年に《交響曲第9番》という、似た編成で割と似ている旋律を持った不朽の名曲を書いてしまったため、この《合唱幻想曲》は私の昔の友人等からは「駄作」「第九の出がらし」と、随分酷い言われようだった。
合唱幻想曲自体は、その作品番号が示す通り、第9よりも随分前(第5番、6番と一緒に初演された。その演奏会の直前ギリギリに作曲されている)であり、別に「第九の出がらし」などではない。
ではないし、声楽パートの歌詞の出所も違う(合唱幻想曲はクフナー、第九はシラーの詩)のだが、主要な旋律の類似性や、"Allegretto ma non troppo, (quasi Andante con moto.)" になって漸く声楽パートが登場することなど、両者の類似点が目に付くのもまた事実。聴けば聴くほど、この曲が「第九」登場のための伏線となっている感はある。
そんなこんなで低い評価を喰らってしまうことのあるこの曲だが、私は結構気に入っている。「どの辺が?」と訊かれると少々言葉に詰まるが、耳に残りやすい特徴的な走句や旋律、そしてこれは特に合唱が入ってきた後の部分であるが、旋律や和声の運びや掛け合い(笑)に「上手いなぁ」と思うところがあるからだろうか。


17:46 - Ludwig van Beethoven: Fantasie pro klavír, sóla, sbor a orchestr c moll op. 80
Adagio; Allegro. Meno allegro. Allegro molto; Adagio ma non troppo; Marcia, assai vivace. Allegro; Allegretto, ma non troppo (quasi Andante con moto); Presto; Zpívají Gabriela Lechner (soprán), Gretchen Eder (soprán), Elisabeth Mach (alt), Jorge Pita (tenor), Andreas Esders (tenor), Gerhard Eder (bas) a Koncertní sdružení Sboru Vídeňské státní opery, sbormistr Walter Hagen-Groll, hrají Maurizio Pollini (klavír) a Víd(19 min)
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2007年07月11日

WQXRで時々流れていた曲

WQXRという、これまたクラシック音楽専門のネットラジオ局がある。NewYork Times が母体となっている局で、流す演奏も流石にアメリカ趣味な明るく開放的なものが多かった。

.....ような気がする。


で、この局をよく聴いていた何年か前、急に放送を聴くことが出来なくなり、一時、AOLユーザ以外には変な制限がつくようになってしまったので、聴くのを止めてしまった。ちなみにこの「制限」は、今はなくなっている。

で、聴くのを止めるちょっと前に、MCのBGMでよく流れている弦楽四重奏風の曲があって、誰かの弦楽四重奏曲だろうとは思ったが、これが気になりつつも結局分からずじまいだった。

しかし、本日、めでたく判明。
オチは、「D-Durを聴いていたらたまたま放送してました。」ということで。(^^;
聴いた印象では当初、ブラームスかと思っていたのだけれど、意外にもシューベルトの弦楽五重奏曲だった。
「ピアノ曲だったら、作曲家を間違えることはなかっただろうに」と思ってみるも、これは単なる負け惜しみに過ぎない。\(__;


18:01 - Franz Schubert: Kvintet pro dvoje housle, violu a dvě violoncella C dur op. 163 D 956 .
Allegro, ma non troppo; Adagio; Scherzo. Presto; Allegretto; Hrají Daniel Veis (violoncello) a Kocianovo kvarteto.(50 min)

posted by D(各務) at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2007年06月25日

チャイコフスキーとブラームス

私の通った小学校や中学校の音楽室には、バッハに始まって、所謂有名どころの作曲家の肖像画が沢山飾ってあった。
そういう学校は多かったのではないかと思うがどうだろうか。

その中で、どうしても2人だけ、私が良く取り違える作曲家が一組みあった。それがチャイコフスキーとブラームスである。
2人とも、白髪をオールバックとは云わないかも知れないにせよ、後ろに流していて、且つ白い髭を豊かに生やしている。
肖像画群の中で、こういう風貌なのは、この2人だけだったのである。

この2人、実は実際に会って話をしている。チャイコフスキーが演奏会でウィーンを訪れた折だったらしい。
で、互いに一個の人間としては気が合ったものの、音楽的には相容れないものがあったということが、チャイコフスキーの日記か何かに書かれているらしい。
恐らく、ブラームスがチャイコフスキーの音楽に "nicht" と云ったのであろう。彼等の作風を見れば、まぁ、わからんでもない。
チャイコフスキーはモスクワ楽派の巨匠。交響曲やピアノ協奏曲、《ロメオとジュリエット》等を聴いても、兎に角「旋律」が音楽の前面に出ている。
ブラームスと言えば旋律に苦労したことでも有名で、彼が高く評価したドヴォジャークを評して「奴の屑篭から旋律を1つ拾い出して、交響曲が1曲書けるだろう」と言ったほどである。その一方、彼のどの作品においても楽曲構成は非常に緻密で、二十歳そこそこの頃の作品でしかない《ピアノソナタ第3番》ですら、個々の楽章において動機間の関係が強固である上に、各楽章間の関係も意味とバランスがきちんと考慮されていて、到底若者の書いた作品とは思えない構成の重厚さがある。特に第5楽章は、ロマン派的作風で書かれていながら、バッハの《インヴェンション》と殆ど同じ分解能で各動機間の関係を説明できるほどであって、構成・楽想の両面から言っても非常に素晴らしい出来の音楽であるとしか私には思えない。

チャイコフスキーは、耳に残る特徴的な動機が、しつこく繰り返される事が多い。交響曲第5番然り、《ロメオとジュリエット》も然り。
ブラームスにドップリ浸かった耳でよ〜く聴いてみると、構成的にはイマイチな印象を受ける作品がある。しかし、それはそれで許せてしまう何かが、チャイコフスキーの音楽にはあるような気がする。私の場合、そう思う作品の代表選手が《交響曲第5番》であったり、《弦楽セレナード ハ長調》等であったりする。

個人的には、音楽作品の品質と言う面ではブラームスの方が優れているとは思うけど、如何せん血が騒いでしまうのはチャイコフスキーの方である場合が多い。尤もそれはスラヴ音楽が共通して持つ「何か」に対する生理的な反応なのかも知れず、そうだとすれば如何ともし難いのだが(笑)。
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2007年06月19日

スメタナ《祝典交響曲》

D-Durを聴く。
スメタナの《祝典交響曲》をやっていた。
げげ、こんなものもやるのか(笑)

《ヴルタヴァ(モルダウ)》をはじめとする連作交響詩「我が祖国」を聴いた向きも、これを聴くとちょっと小首を傾げたくなるかも知れない。まぁ少なくとも私はそのクチであった。
何でかというと、オーケストレーションが《ヴルタヴァ》のほぼそのまんまの延長線に乗っかっているだけではないかと思えるほどに類似している。尤も《ヴルタヴァ》であれば楽想に似つかわしいオーケストレーションと言って良いかも知れないが、この交響曲でも似た楽器法で来られると、《ヴルタヴァ》の印象がまず先にあるために、色彩感が単調な印象を受けるのだ。後はなんとも云い難いけど。

この作品の成立した当時、現在のチェコ共和国に相当する地域は「ドイツ連邦オーストリア帝国」の一部であった(元々独立した王国であったが、何でそうなったかの話は、始めると長くなるので割愛)。当時のオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ一世はボヘミアの独立を認めてくれそうな君主であると見たスメタナは、「ボヘミア独立の為には、まず彼のご機嫌を取っておくことである」とでも思いを定めたのであろうか。その皇帝の成婚に際し、オーストリア皇帝賛歌(現ドイツ国歌)の旋律をちりばめたオベンチャラ的交響曲を作曲し、皇帝に献呈しようとした。しかし帝国政府は「チェコ人の書いた交響曲など不要である」とばかりに献呈を却下してしまい、この作品はそのまま忘却の彼方へ追いやられてしまうことになる。この曲は、そんな歴史をもっている。
以後、スメタナが交響曲を書くことはなく、チェコ人によるロマン派以降初めての本格的な交響曲の登場は、ドヴォジャークと、それに続くフィビヒの作品まで待たねばならなかった(但し、単に「チェコ人による交響曲」と言った場合、国民楽派よりも遡った時代に、シューベルトと同時代人である Jan Václav Voříšekによるニ長調が既に作曲されている)。
独立運動に参加して銃を取って戦ったかと思えば、こういう作曲にも手を染めている。愛国心が服を着て歩いているような男だったんでしょうね、スメタナという作曲家は。

こんな曲でも、実は録音がないこともなくて、今でも入手可能なCDも何枚か出ている。
例えば、SupraphonのDISCなど。
冒頭で芳しくない感じに書いたこの曲だが、過去に《プラハの春》国際音楽祭で演奏された、ピアノ4台16手版のCDがあって、これは第3楽章「スケルツォ」と第4楽章「フィナーレ」しか収録されていないが、俄然面白い(ちなみにこの他、2台8手の為の《ロンド ハ長調》等が収録されている)。8人の奏者の息がピッタリ合っていることも要因だろうが、寧ろピアノ曲であったほうが良かったのではないかと思ってしまうくらい、良い出来の演奏である。このCD、「4台16手」という編成だけで好奇心に訴えるものがあるが、そういうことを差し引いても、充分聴き応えのあるものだと思う。
 →ものはこれ:Smetana: Piano Music for 8 and 16 hands

ちなみに、"Smetana" という苗字は、日本語に直訳すると「生クリーム」となる。但し、「生クリーム」を日本語と言って差し支えなければ、であるが。
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2007年06月12日

フィビヒ《交響曲第3番》Op.53

今日のD-Durは、のっけからフィビヒの交響曲第3番だった。やたーっ。

曲目のことはさておき。
今までこの曲の演奏は手持ちのCD2枚で聴いていて、それぞれ、ネーメ・ヤルヴィ&デトロイト響、ゲルト・アルブレヒト&チェコフィルのものだった。前者は割とオーソドックスな解釈ながら、アメリカ的開放感&イケイケノリな感じであり、初めて聴くには悪くないけど、ヨーロッパ桶のサウンドが好きな人にはちょっとやりきれないところもあるかも知れない。一方後者はヨーロッパらしい、前者と比べてやや暗めの、落ち着いた音色、そしてちょっとクセのあるテンポ取り(といって、これが悪い種類のものとは思わないが)であった。

両者とも良いところがありつつ「もう一声欲しいかなぁ」と思っていたところへ、今日の放送。ビェロフラーヴェク&ブルノ州立フィル。
別にブルノといっても、ご当地モノのヤナーチェクばっかリやっているわけじゃないだろうけど、フィビヒとなるとやはり「へー♪」と思ってしまう。
でもこれ、ややテンポがゆっくり目に聞こえるが、演奏そのものの質は前記二者と比較しても、決して見劣りしない演奏だろう。
CD、出てないかな。。。


18:06 - Zdeněk Fibich: Symfonie č. 3 e moll op. 53
Allegro inquieto; Allegro con fuoco. Adagio; Scherzo. Vivo e grazioso. Andante con moto; Allegro maestoso. Allegro vivace; Hraje Státní filharmonie Brno, řídí Jiří Bělohlávek.(38 min)

※ちなみに、D-Durの放送について書いているときは、上のように放送プログラムを時刻付きで書いていますが、この時刻は飽くまで掲載されている時刻そのまま(=チェコの現地時刻)です。
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2007年06月10日

ボロディン 《弦楽四重奏曲第2番》ニ長調

D-Durで、題記の曲を放送していた。
#最近、やや「D-Dur日記」と化しているような気もしないでもないが(苦笑)。。。

懐かしいなぁ、と思って聴いたのだが、それは院生(隠棲ではない)時代にこの曲を聴いて気に入って、CDを買って聴いたことがあったからだった。
当時買ったディスクは、タカーキ・クァルテットによる演奏であったが、今日放送していたのは、マルティヌー・クァルテットのものだった。
第1楽章で妙に引っ張るなぁと思ったが、他はテンポがやや緩めである他は、まぁこんなものかなという感じの演奏であった。
まぁ、兎に角いい曲ですな。(^^)



18:23 - Alexandr Porfirjevič Borodin: Smyčcový kvartet č. 2 D dur

Allegro moderato; Scherzo. Allegro; Nokturno. Andante; Finale. Andante. Vivace; Hraje Kvarteto Martinů.(28 min)
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2007年06月09日

無駄な音がないことの難しさ

大学の頃、ホルン奏者として、学校と一般の団体の吹奏楽団(I橋区吹奏楽団)に参加していた。
学校の方では、全員参加で内輪のアンサンブル大会(?)が開かれたことがあった。
このとき、サックスパートはバリトンとアルトの2人しかメンバーが居なくて、アンサンブルと言っても曲がなかったらしい。
そこで何とかしろと言う話があって、私が当時管弦楽法を勉強(っても所詮独学だが)していた関係で、何かでっち上げることになった。

当時、シューベルトのソナタにのめり込んでいた私は、
 1.ピアにスティックな効果を要求しないもの
 2.そこそこの長さであること(つまり、長すぎないこと)
 3.分かり難いリズムが出てこないこと(奏者にさほど要求できない為)
という点も考慮に入れた結果、シューベルトのピアノソナタ ロ長調 D.575から、第3楽章のスケルツォを選び、編曲することに決めた。元がト長調なので、ゴチャゴチャ言われる前に(吹奏楽の管楽器奏者ってのは、調号に#が付いているのを嫌がる習性がある。元調で#が1個でもついているのは基本的にはNG)、予めヘ長調に移調しておいた。
前述の2つのサックスが編成として入っていればいいので、楽器の特性から、想定する奏者の力量や癖などもある程度考慮して、次の編成にした:
 Fl=1, Cl=2, Hr=1, AltoSax=1, BassCl=1, BaritonSax=1

編曲が出来上がり、実際に演奏したのを聴いた。こういう場合、本来は自分も演奏に参加すべきであろうとは思ったが、実は自分で編曲の効果を「観衆としての」自分の耳で確認したかった為、ホルンパートは、私よりも細身で木管とのアンサンブルにより合いそうな音を出せる女の先輩にやって貰った。
トリオ冒頭の3小節間は8分音符をAltoSaxにしてしまっていたのだが、これはClにした方が良かった。が、その他には1点を除き、特に失敗したと思うところがなかった点、限られた条件に上手くはめ込まなければならなかったという意味では上出来だと思った。

しかしその1点というのが、実はクセモノであった。
何かというと、1フレーズだけ、内声にホルンの音を足した箇所があったのだが、聴いてみると、そこがどうにも違和感があったのだった。
違和感を感じた理由には、私が既にこの曲を何度となく聴き込んでいて、そのあるべき音のバランスなどが固定観念として念頭にあるせいもあるだろう。であるかも知れないが、私が聴くところ、その音を足した箇所だけは、我ながらシューベルトらしくない音に聞こえてしまっていたのであった。
ここは実際には、音を足す必要はなかったのだが、この編曲では、ホルンパートがかなり暇なので、申し訳のように音を足してみたのであったが、却って邪魔であったということだ。

シューベルトは、モーツァルトのように、和音にしても構成音の数が少ない。
演奏や解釈の面では、複雑でないだけに簡単なのではないかという考えは通用しないが、これは編曲においても同じで、彼等のような天才が作った作品においては、そのような見通し方は不可である。何故なら、音に過不足がなく(というより、少ない音で表現していること自体が、その音楽作品としての個性の一面を形成している)、そこには付け足しも省略も、その結果は違和感として聴くものに伝わってしまう。更に音が少ないだけに、ボロが出やすい。これは、例えば同じ天才の作品でも、ラフマニノフの第3協奏曲の第2楽章で音を2つ3つ省略した場合と比較してみると良い。結果は歴然である。ごまかしは一切通用しない。

件の編曲に就いては、幸いというか、元の曲を詳しく知る者が居なかった為、編曲に異論を唱えられることはなかった。勿論、シューベルトは何曲か、ピアノ弾きとして取り組んだことがあるので、そのシンプルさ故の難しさは承知しているつもりであった。が、ピアノ演奏という点とはまた違った方向から、「無駄な音のないことの厳しさ」を思い知る経験であった。

後日、このアンサンブル大会(?)のアンケートの集計結果を読んだ。この日サックスを吹いていた女の子の回答で、「サックスの為にかかれたちゃんとした曲をやりたかった」という内容のことが書かれていた。
・・・まぁ、確かに小回りの利くサックスの味の出ない編曲をやらせたことは事実だ。
「が、そうまで言うなら、自分で曲を探しておいでよ。(^へ^;」
と思う一方で、サックス然とした曲はあの人数(=2人)では無理かも知れないにせよ、せめて「亡き王女のためのパヴァ−ヌ」辺りの、もう少しメジャーな曲にしておけば良かったのかしらん、とはそのとき思ったことだった。
posted by D(各務) at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2007年06月03日

カルミナ・ブラーナ

・・・を、D-Durで放送していたので、途中からであったが聴いた。
《カルミナ・ブラーナ》というと、大学時代、吹奏楽同好会時代に一部抜粋で演った事がある。
丁度流行っていた時期ではなかったろうか。

しかし、暫く聴いているうちに気付いたが、思っていたものと違う作品であった。果たして、D-Durのサイトを見てみると、「作者不詳」とあった。以下、D-Durのサイトからの引用:



16:57 - anonym: Carmina burana. Směs středověkých písní pro sólové hlasy a instrumentální doprovod

Clauso Cronos; Presens dies; Crucifigas omnes; Ad cor tuum reverte; O curas hominum; Fas et nefas; Tempus transit gelidum; A globo veteri; Bache, bene venies; Deduc, Syon; Pange lingua; Nulli beneficium; Celum, non animum; Vacillantis trutine; Vite perdite; Iove com Mercurio; Zpívají Catherine Bott (soprán) a Michael George (baryton), hraje New London Consort, řídí Philip Pickett.(76 min)





Wikipediaの記事を見ると、元々バイエルンにあるベネディクト会のボイレン修道院(Benediktbeuern)で発見された詩歌集のことであって、カール・オルフ作曲の世俗カンタータは、それを基にして作曲されたものだということが書かれていた。

・・・なるほどねー。

詩は殆ど同じであるようだが、時代柄、随分と素朴な音楽になっていた。
posted by D(各務) at 01:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2007年05月25日

WCPE

最近、ネットラジオで音楽を聴くときは、チェコの D-Durを聴いていることが多いのだが、たまにWCPEという局の放送も聴いている。
こちらも音源の質が高い。
今日は帰宅してからWCPEを聴いたのであるが、丁度その時間から聴けたのは、ドヴォジャークの《ピアノ三重奏曲第1番》(スーク・トリオ)、シューマンの《謝肉祭》(ホルヘ・ボレット)。
ん〜、ボレットとはなかなか渋い選択だ。

...っと、ボレットはリスト弾きとして有名らしいと数年前に人から聞き、お薦めという話だったのでボレットが弾いたリストのCDを1枚、買って聴いた記憶がある。今もそうなのだが、実は当時からリストは聴くのも苦手だったので、取り敢えず聴いてはみたがあまり印象には残らなかった。
まぁそんな過去がある。

シューマンもあのしつこさがどうも苦手(食べ始めは滅法美味ものの脂っこすぎる料理を食べて胃もたれを起こすようなもんか・・・)なのだが・・・ボレットのシューマン、なかなか悪くないではないか。
決して並みより速く弾いているわけではないが、歯切れ良く、力強く。1曲目の速くて難しいパッセージは思いっきり難しく聞こえるし、やはりシューマンはこのくらいしないと(笑)。
posted by D(各務) at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2007年05月15日

チェコ音楽コンクール 2007

気がついたら、今年で《チェコ音楽コンクール》も第5回を迎えるそうで。
もうちょっと宣伝に力を入れてみたらどうかという気がしなくもないが、実際のところ、参加状況はどんなものなのだろうか。

・・・ということで、ささやかながら応援の気持ちを込めて、話題に取り上げてみた。
posted by D(各務) at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽